続!愛をください!

メンヘラのメンヘラによる大衆のためのメディアコンテンツ

これからどんどん生長しても、 少年たちよ、容貌には必ず無関心に、 煙草を吸わず、お酒もおまつり以外には飲まず、 そうして、内気でちょっとおしゃれな娘さんに 気永に惚れなさい。

 

会話が苦手である。

友達にそう言うと、会話なんて話したいことを自然に話せばいいんだよ、と不思議がられるのだが、私はまさにその「自然に」話すことが、いちばん苦手なのである。

会話が始まるにはまず相手がいなければならない。しかし、相手にとって自分がどういう人なのかを読み間違えるととても恥ずかしいことになる。こっちは親友だと思って話していても相手にとっての私はただのクラスメイトでしかない場合、「いやーほんとここまで踏み込んだ話ができるのはお前だけだよー!」と心開いた証として最高の称賛を送ったとしても、あっちは「そっか、じゃあおやすみ!」と素知らぬ顔で寝てしまう可能性は非常に高い。そのとき私はどうなるか?酷く傷つくのである。誰でもそうであろうが、私は、傷つくのが大嫌いだ。そうならないように常に一歩、いや千歩ぐらい引いて、相手が見えるか見えないかぐらいのところからでないと安心して会話を始められないのだ。そのとき会話はどうなるか?聞こえないのである。そこまで引いてしまうと、最早相手は他の誰かと話していたり、近付くのに時間がかかりすぎて「今日暑いね~!」「暑いねー。」「いやーマジ暑い。」「超暑いねー。」とひたすら自分たちの体感温度を披露し続けるマシーンとなって会話を終えるのである。不毛すぎる。

そしてどうにか会話が始まったとしても、まだ緊張は解けない。会話をしているときに、どこを見ていたらいいのかがわからないのだ。小学生の頃に親や先生から「人の目を見て話しなさい」と習ったはずだが、こんにちの日本でそれを実践している方はあまりお目にかからない。いや、お目にかからないのは私がいつも会話するときに地面にいる蟻ばかり数えているからなのかもしれない。本当は相手は私の(蟻を数えているせいで)泳ぎに泳いでいる目を必死に見ながら話してくれているかもしれないし、更に言えば「あの子って、喋るときいつも目がうろうろしてるよね~」「あっわかる~!あれ超キモくな~い?」「マジキモいよね~~!!」「「アハハ!!」」という会話が私のいない場で毎日繰り広げられている可能性だってなきにしもあらずだ。嫌だ!こわい!!私だって好きで地面ばかり見てるわけじゃないさ!!ただ顔をあわせて話すとなると表情筋という表情筋が緊張でこわばって、いまにも泣き出しそうになってしまうんだ!!助けて!!否定しないで!!愛して!!愛してよ!、と私が蟻を数えながら脳内で見えない敵と戦っている間にも会話は進んでいるのだが、私自身話の内容よりも目線ばかりが気になってしまって、最終的に訪れるのは沈黙である。私と目があうと、こちらの異様な緊張が伝わるせいか、相手も他の人に対するようには言葉が出てこないようだ。その一瞬の緊迫感が永遠の地獄のように感じられて、思わず私の口から一つの言葉が零れる。

「……今日マジ暑いね!」

再び私は悲しき体感温度披露マシーンと化してしまうのであった。


あと、相槌。あれも本当にわからない。「うん」という相槌を入れるだけでも、「うん」と発するときの声の強弱、タイミング、表情、全てが謎に包まれたままもうすぐ成人を迎えようとしている。「会話のキャッチボール」とはよく言ったものだが、私はそのキャッチボールする場所や使うボール、投げる速度や方向、全てに緊張してしまうのだ。これが初対面の相手だけに起こる緊張ならばまだいい、しかし私の場合どれだけ長い時間をかけてもこの緊張が取れず、いつまでも誰に対しても「自然な」会話ができないままでいる。20年間何をやっていたんだ。


「自然さ」が持てないために世界の中に入れない苦しみは他にもある。

例えば、私は毎年、半袖に着替えるのが人よりも一日だけ遅れる。町に出て人々が半袖になっているのを発見して、初めて自分も半袖を着るからだ。たった一日の差はたいしたことではないと思われるだろうか。そうではない。その一日は「人間」と「人間外のもの」を分ける一日なのである。人間たちはみな「自然に」衣替えも行う。私は彼らの真似をして半袖を着るのだ。私はそこに「人間外のものには見えないルール」の存在を感じる。

自由に楽しむだけの会話にさえも見えないルールはある。「人間」たちは皆そのルールに対するバランス感覚を生活していく中で獲得し、それに「自然に」従えるようになっていくみたいだが私は駄目だ。どんなに努力しても「自然さ」が獲得できないのだ。「自然さ」が得られなかった者は、世界の中に入れない。世界の自由さの中に含まれた自然なルールがわからない私は、朝日に溶けた幽霊のように、いるのにいないような存在になってしまうのだ。そこまでいくと、人はあるとき私の「不自然さ」に必ず気づく。それがたまらなくつらいんです。魔女狩りのない時代で本当によかった。


だからこそ、同級生やサークルの人やTwitterの人に話しかけられたり、ご飯に誘われたりすると、涙があふれ出るほどうれしい。呼ばれた理由が何であってもうれしい。

「あれっメンヘラ神!?まだ生きてたんだ!!」

と勝手に死んだことにされてたとしても本当にうれしい気持ちでいっぱいになる。



この世界に、ほんの一瞬でも、さわれたことがうれしいのだ。